ちょろの癒し部屋【スピリチュアルブログ】

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敢えて完璧になろうとしない生き方も許される理由

おはようございます。

ちょろです。

 

 

「完璧に仕事をこなす。」

大変カッコいい事です。もちろん「完璧に仕事もできる」「完璧にプライベートも充実する」「完璧に恋をして結婚する」「完璧に子育てをして完璧な老後を迎える」

「完璧な資産形成をしておいて完璧な人生の終わりを迎える」

 

そう。こんなに完璧に充実した生き方を僕達は求めて毎日を過ごします。

どうしてそれを求めるのか?

 

僕達が人間だからです。

 

僕達人間は「完璧にならないと許されない」という教育を人生のどこかで受けています。

それは、小学校で「足の速い人と比べられる」とか、中学校で「人と馴染めないことを許されない」とか、高校で「勉強が出来ない生き方は許されない」とか。

特に日本の教育システムではそんな「完璧になろうとする」人が増えていってしまうのが現状です。

 

でも、実際の社会ではそんなことはありません。

完璧になろうとしても完璧に出来ないことが殆どです。

完璧な生き方をして成功している人は全くいません。

完璧でない生き方も許されるとみんな思っています。

 

それでも。完璧になろうとしないと許されない。と思っているあなたの為に記事を書きます。

 

結論から書きます。

なぜ、完璧になろうとしない生き方でも許されるのか?それは。

 

・この世に完璧な物など存在しない

 

 

 からです。では、話を進めていきましょう。

 

人間は完璧を求めて生きる動物

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僕達人間は「考えながら2本足で立って生きる事が出来る動物」です。

2本の足で立てるので手が自由に使えるようになっています。

 

普通の動物は4本の足で動きます。

どんなにいいアイデアが浮かんでも実行することは出来ません。

人間は「2本足で立つ」ということを思いついたのでどんどん地球環境に合わせて生きられるようになりました。

完璧では無かった人間の祖先から、だんだんと完璧になろうとして今の人間になっているのです。

 

2本足で立てるようになったから脳も進化してより、「完璧になろうと」して生きてしまうのです。

 

脳が大きいと「欲」も自分でコントロールしたくなります。

そして「理性の部分」で僕達は「欲」をコントロールしているように見えますが、そのコントロールは完璧ではありません。

 

「人と比べて自分がどれだけ劣っているのか?」

「自分よりも能力の高い人が沢山いて自分を責めてしまう。」

「誰よりも凄い能力を身に着けることが完璧に幸せになれる事なんだ。」

 

というようなことを僕達の脳の「欲」の部分は持っています。

 

完璧になろうとすることで実は自分自身を苦しめて、幸せから遠ざけているのかもしれません。

 

完璧になろうとしない生き方がいい生き方

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完璧になろうと生きる事は素晴らしい事です。

誰でも「非の打ちどころの無い人生」を送りたいと思っています。

 

そして、実際にそんな人生を送っている人も世の中にはいるのかもしれません。

「自分から見たらあの人の生き方はまさに幸せの理想像だ。」

 

と思える生き方をしている人もいます。

 

最近、ブロガーの「イカキムさん」(id:ikakimchi)という方のブログを購読しているのですが、「結構自由に緩く生きているミニマリスト」さんです。

ブログのタイトルも「ミニマリストの好き勝手」なんてタイトル。

www.ikakimchi.biz

こんな生き方もひょっとするとある種の理想像なのかもしれません。

 

話を戻します。

完璧な生き方をしている人とは、

 

・勉強でいつもトップクラス

 

・部活で全国トップクラス

 

・いい大学を卒業

 

・超大手企業に就職

 

・仕事でもナンバー1

 

・そのまま65歳まで出世街道をひた走り老後を迎える

 

 

 

 まあ、こんな人です。

実際にこんな人もいるでしょう。(僕からしたら程遠い別次元)

 

僕は完璧な生き方をしていませんが、とりあえず今は生きています。

賃貸ですが家にも住んでいて、着るものも食べる物も困っていません。

結婚もして幸せな生活をしています。

 

だから、今のままの生き方で満足か?

と聞かれると僕の欲の部分は「いいえ」と答えるはずです。

 

常に今よりもっと「完璧になろう」と頑張るのが人間の思考では自然です。

でも、完璧な生き方はほぼ間違いなく存在しないのでそのギャップに苦しめられ、

「完璧でないと許されない」という思考になってしまうのです。

 

今のままの生き方が本当は一番幸せなのに、「完璧」に対して満足感を得られないのでもっともっと「完璧な生き方」を求めてしまうのです。

 

では、僕達は誰の為に完璧になろうとしているのでしょうか?

 

完璧になろうとすることが人の為ではない

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世の中では、

「人の役に立つ生き方をしなさい。」

「人の為に頑張って生きて幸せになりなさい。」

「人の為に生きるからあなたも幸せになるのです。」

 

という、利他の心思想を教えます。

それは、「人としての優しい心」を持つうえでは非常に大切な事です。

争いの無い平和な世界を築くためには「利他の心」は必要不可欠です。

 

でも、「自分が苦しんでまで人が幸せになる」ことは果たして必要なのでしょうか??

 

ちなみに仏教の有名な言葉「情けは人の為ならず。」ですが、

誤解している人もいるかもしれませんが、この言葉は

 

「他人に情けを掛けるとその人の為にならないから辞めましょう。」

 

ではなく。

 

「他人に情けを掛けると巡り巡っていつか自分が得をして、自分の為になるのよ。」

という意味です。

 

つまり、釈迦も「結局自分が得したらええやん。戦略的に人の為に動けばええのよ。」

というまるで「サラ金業者」のような思考だったということが分かります。(極端すぎるかw)

 

完璧に生きようとする事で人の役に立てる。

そう思って自分の価値を高めようと毎日毎日努力をしているのが僕達人間です。

 

でも、「誰のための人生なのか?」ということを考えた時に、それは「自分の為の人生」です。他人になぜ施すのか?という問いにも胸を張って「自分の為です」と言えなければそれは「ウソつき」です。

 

そんな人の思考はまさに「無責任な思考」なのではないかとも思えるのです。

 

自分が許されるから他人も許される

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「自分には価値がある」

そう思えることが人生では非常に重要です。

 

なぜなら前述しましたように僕達は「他人の為」に生きているわけではなく、「自分の為」に生きているからです。

 

自分の為に生きる事が人の為、つまり「利他の心」には重要なことなんです。

 

自分の価値をきちんと認め、自分に優しくなる。自分の生き方を許す。

そうすると、「完璧になろう」ということのハードルがどんどん下がってきます。

 

「え??完璧??あ、今のままで結構完璧に近いね。」

 

というようなことすら起きてくるのです。

するとどうなるか、、、

 

「え??あんたまだそんなに頑張ってんの??ええからええから、もうそのくらいにせーへんか??」

 

と、他人にも「完璧になろうとしない生き方」を求めやすくなります。

 

「楽な生き方をしてもええんやね。」

と世の中の全員の人に言えるようになるのです。

 

自分の価値に気が付くと、「自分はこれくらいしか出来ないからこれだけやろう。」

「自分の出来る範囲で前に進めるように頑張ろう。」「人は人。自分は自分。」

と思えるようになってきます。

これは間違いありません。

 

そして、そんな生き方も許されるのです。

 

完璧になろうとしない生き方が許される理由です。

 

最後に

僕達は日々、前に進みます。

この世に産まれてずっと死に向かって生きているのでそれは自然な事。

 

ですが、無理に他人のペースで進む必要もなければ他人の価値観による「完璧な生き方」を目指す必要はありません。

自分なりの「完璧な生き方」を目指すことが一番幸せな生き方なのでしょう。

 

その為には「敢えて完璧になろうとしない生き方」にチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

 

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 

僕はたまには息抜き旅行でソフトクリームなんかも我慢せずに食べちゃいます。

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