おはようございます。
ちょろです。
今回の記事は、かなり書くことを躊躇してしまいました。
今から書くことはあくまで、僕の主観であり、「これがいい」という話ではありません。
テーマは2016年7月26日に神奈川県相模原市で起きた「障害者施設殺傷事件」についてです。
被告人である「植松聖」。遺族や家族に対する謝罪はしていますが、亡くなられた方への謝罪は未だにありません。
そして、裁判はまだ続いています。彼は今後もある種の「信念」は曲げないでしょう。
それぐらいに「凶悪で、強烈」な精神状態の下、「植松聖」という個体は動いているのだと思います。
結論から書きます。
植松被告の様な存在は、消えてなくなることはありえない
そう、僕は考えます。
「正しいスピリチュアルパワー」がある代わりに、間違いなく「正しくないスピリチュアルパワー」も存在してしまうのです。
それでは、具体的に書いていきましょう。
植松被告は通常の人から見れば異常【闇のスピリチュアルパワー】
相模原障碍者施設殺傷事件。
被告人である「植松聖」は、何の罪悪感も無く未だに生きています。
事件は2016年7月26日、神奈川県相模原市の「やまゆり園」で起こりました。
入居者19名が殺害され、入居者、関係者26名が重軽傷を負わされた事件になります。
当時、僕も事件を見ていて「とんでもないことになった。異常な人間がいる」
と思ったものです。
そして、今でもその思いそのものは変わりません。
しかし、彼の主張自体も「全てにおいて否定する」ということが、ここ最近出来なくなっているようにも感じるのです。
この世に「物や人」が存在すれば、様々な個体が産まれてくるのはしょうがない事でしょう。
もちろん、全ての人や物には価値があり、同じレベルで生きています。
「優劣」があるわけではありません。
「正」があれば「悪」もまた存在してしまうのが、この世界という物でしょう。
植松被告は「意思疎通の取れない人間は安楽死させるのが正義」だと、主張しています。
出典元:新聞、テレビが絶対に報じない「障害者殺人」植松被告の罪意識
これは、恐ろしく極端な話で、だから「人殺しをしてもいい」という理由にはなりませんが、「色々な人が存在する中でこのような思考が産まれてしまうのは当然」だとも、言えるかもしれません。
僕達は「正のスピリチュアルパワー」を使って生きていますが、植松被告は「闇のスピリチュアルパワー」を使って生きているのかもしれないのです。
正があれば、悪は存在します。
そして、互いの世界を100%理解し合う事は不可能なのではないでしょうか。
植松被告は他の世界が異常と捉えている【スピリチュアル的視点】
スピリチュアル的に言えば「今の世界を創り出す」のは、自分の潜在意識です。
自分が見ている世界が、この世の全てで、人はそこに「幸せ」を見出すために生きています。
ということは、僕もそう生きていますし、あなたもそう生きています。
そして、「植松被告」も、自分の中の世界で生きているのです。
更には、「殺されてしまった方々」も、その世界の中で生きていらっしゃったことでしょう。
植松被告からすれば、「僕の存在も、あなたの存在も、被害者の方々の存在も、」全てが「異常」だと感じているのでしょう。
僕達から見て、植松聖が異常なように、彼から見て、僕達も異常です。
これは、どんなに世界が平和になって幸せになっても「続いていくこと」だと僕は思っています。
人生というのは「うまくいかないこと」があるから、「うまくいった時」の達成感や幸せを感じるものです。
ずっと幸せばかりでは、「それが当たり前」になってしまいます。
植松聖、の中では、「意思疎通の取れない人をこの世から消すこと」は、完全に正義だと思われています。
それが「みんなにとって幸せだと」信じているのです。
僕には彼の感覚は理解できませんが、植松聖も僕の感覚は理解できないでしょう。
見ている世界そのものが違い過ぎるのです。
また、彼は、「毎日その障害がある方」と接してきて、見ている世界を変えてしまったとも言えるかもしれません。。人はそうやって変わっていく物でしょう。
何でも「存在する」だけで意味あるもの【スピリチュアルは万人に共通】
ただ、これだけは言いたいです。
「この世の存在で、価値がない物は無いし価値がない人もいない」
ということです。
つまり、被害者の方々も間違いなく価値はあるし、僕にも価値があるし、あなたにも価値があるし、僕が使っているパソコンにも家にも服にも価値があるし、、
植松聖にも、価値があるのです。
植松聖は、もっと真っ当な方法で、障碍者の方々を幸せにする力があったのかもしれません。
しかし、彼の世界の中に「そういった常識」はありませんでしたし、これからもなさそうです。
でも、彼にも価値はあります。
どれが真実の愛なのか、正しい方法なのかは分かりませんが、僕がいる限りあなたもまたいるということにも繋がります。
どういうことかというと、、
・今、この記事を読んでいるあなたがいるから、僕もここに存在する
ということです。
悲しい事ですが、その存在がある限り、その存在を「消そう」とする何らかのパワーは必ずこの世にあるのです。
人が、産まれてからすぐに「死」に向かって歩いていくように。
植松被告の様な人はどんな世界にも必ず存在してしまう
とても悲しい事ですが、「植松被告のような人」は、この世界がある限りいなくなることは無いと思っています。
個体が存在する限り、その個体と「相反する個体」は必ず存在します。
僕の事を「殺したい」と思っている人間も、この世界にはいるはずです。
(めっちゃ多いかもしれません)
話は変わりますが、今の日本は「実に幸せ」です。
今、日本に生きていて「突然殺される」ということは、あまり高い確率では起こりません。
急に「ご飯が食べられなくなる」ということも、災害が起きなければ、なかなか
ないでしょう。
でも、150年前の日本ではそういった、「急に殺される」「ご飯が食べられなくなる」が、当たり前の様に起こっていました。
つまり、「僕は、僕を殺そうとしている人から、いつ殺されてもおかしくない」ということが、昔は当たり前にあったのです。
それだけ、僕達は今「幸せな日本」に生きています。
幸せがあれば「不幸せ」も、間違いなく一緒にやってくるでしょう。
幸せであればあるほど「不幸せ」も強くなります。
決して植松聖が起こした犯罪を「許すこと」は出来ない、と考えていますが。
そういったことが起こるのも、また「世の中」なのだとも思ってしまいます。
だからこそ、僕達は「自分をきちんと愛し、正のスピリチュアルパワーを使う事」で、世界を生きていかなければいけないと言えるでしょう。
そうでなければ、いつの間にか僕達も「植松聖」のように、極悪非道な世界に生きる事になるかもしれません。
最後に
いかがでしたでしょうか?
今回は「相模原障碍者殺傷事件」の被告人「植松聖」について、考えてきました。
彼は間違いなく、「今の世界からすると異常な存在」です。
しかし、僕達がいるから、「彼もいる」のかもしれませんね。
物事と言うのはそういう物だと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。